2021年10月26日 09:52更新
JCVの生活情報番組「すまいるone」。10月17日~10月23日の放送は「ぶらり上越旅♪~前編~」。上越発祥の地を巡ります。
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【日本スキー発祥記念館】
上越で発祥地を巡るうえで外せないのが、皆さんもご存知、日本スキー発祥の地「金谷山」です。
金谷山にあるのが「日本スキー発祥記念館」です。
オーストリア・ハンガリー帝国の軍人、テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐。この地で日本人にスキーを伝授したことで知られています。
レルヒ少佐はなぜ日本、そして高田に来たのでしょうか?
レルヒ少佐はスキーを教えるために来たのではなく、明治38年の日露戦争で大国ロシアに日本が勝ったことを聞いて、日本の軍隊の視察に来ました。
レルヒ少佐の故郷はオーストリアのハンガリー。ロシアは隣り合わせだったため、脅威の存在でした。オーストリアはとても雪深い場所なので、自分の国と同じような気候の土地の視察を希望したのです。これが日本でスキーを指導するきっかけになりました。
レルヒ少佐の伝えたスキー術は、一本杖スキーです。これは、急な斜面を安全に降りてくるための移動手段でした。今のようにスピードを出したり、技を楽しむためのスキーではありませんでした。
スキー用具の研究も、上越から始まりました。誰もスキーを作ったことがなく、当時は大工さんなどが制作にあたっていました。作っていたそうです。スキー用具の供給も当時はこの上越が大きな役割を果たしていました。これが後のものづくり産業に発展するのです。
発祥記念館では、さまざまな年代のスキー用具が展示され、その変化を見ることができます。
こちらは昭和40年前半のスキー靴です。革靴を改良したもので、留め具は金属製です。
昭和40年後半になるとスキー靴はプラスチック製になります。現在のスキーブーツの原型です。
レルヒ少佐は二本のストックを使うスキーも、一本杖スキーも両方滑ることができました。しかし、上越では山の急斜面を安全に移動するための技術として、一本杖スキーを選んで伝えたということです。
それが大正時代になると、スキーの競技大会が開催されるようになり、よりスピードを求めて二本のストックを使うようになりました。合わせて用具も進化していきました。
この高田で日本でのスキーの歴史に大きく関わったレルヒ少佐ですが、もう一人、重要な役割を担った人物がいました。
それが、プロペラのようなヒゲがトレードマークの長岡外史です。 スキー普及だけでなく、飛行機の発展にも尽力したことから“プロペラひげ”と名付けられたとも言われています。
外史は、ヨーロッパに視察に行った時にスウェーデンでスキーをする様子を見学しました。そこで、雪国でスキーがどんな役割をしていたのか、軍隊でスキーがどんな使い方をされていたかを知ります。スキーの重要性を知っていた長岡外史は、高田にやってきたレルヒに出会います。これが日本におけるスキーの始まりとなったのです。
当時、高田で配置された陸軍第13師団の師団長だった長岡外史。二人が出会うことで軍隊だけではなく、民間にもスキーが広まっていきました。
ところで、上越高田がスキー発祥地と言われていますが、高田と札幌でどちらが本当のスキー発祥の地かで論争があったことを知っていますか?
大正から昭和にかけて、どちらが発祥の地として先かという論争がありました。ほかの地域は外国人がやってきてスキーを楽しんだという記録は残っていますが、高田では外国人から日本人にスキーの技術が伝わり、スキーの技術や用具が研究され、一般の人たちに大きく広まっていったことが、ほかの地域と大きく異なる点でした。その点が認められ、その証として金谷山に「大日本スキー発祥の地」の碑が建てられているのです。
スキーがひとつの産業、事柄がここから始まっているのであれば、発祥というのも納得です。
上越市教育委員会・文化行政課の荒川将さんは「日本スキー発祥記念館は、上越で始まったスキーの歴史や文化をわかりやすく伝えている施設です。多くの皆さまにお越しいただきたいと思っております。ぜひよろしくお願いします」と話しています。
施設情報
日本スキー発祥記念館
住所:上越市大貫2-18-37
電話:TEL025-523-3766
開館時間:4~10月9:00~16:30/11~3月 10:00~16:00
休館日:月曜日・祝日の翌日
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